たたかい #3
「いってきます」
「いってらっしゃい。……こりないね。私には真似できない」
 昼休み、苦笑する友達を置いて、私はまた先生のいる社会科準備室へ行く。
 昨晩、母と話したせいか、心の波はかなり穏やかになっている。本当ならふられた翌日に会いに行くなんてできないけど。
「失礼します」
 相変わらず先生は一人。うどんかそばか、つゆの入ったどんぶりが机に置かれていた。
 湯呑みに口をつけながらこっちを見た先生は、お茶を吹き出さんばかりに目を見開いている。
「今日はうどんですか? あ、それとも、そば?」
「あ、ああ……うどん、だ」
 私を見たまま、ごくりとお茶を飲み込んだ先生は、湯呑みをどんぶりの中へ入れて立ち上がり、流し台のほうへ向かっていく。
 空いたばかりの先生の席に座った。残るぬくもりに少しお尻が緊張したけど、息を吐きながら味わうように力を抜く。
 背をもたれさせて、さらに先生のぬくもりに包まれる。
「先生、私が来たからって、普通そこまで驚きます?」
「昨日の今日、だからな」
 食器を洗う水音の向こうから先生の声。
「本当は……仮病使って休もうかな、って思ってたんです……よね」
 きゅっと水道の栓をしめる音の後、先生が白衣で手を拭きながら、自分の机にお尻を預けるようにもたれた。
 座る私は先生を見上げ、先生は私を見下ろす。束の間の見つめあい。
「俺は、お前は授業をさぼる、とふんでたんだ。俺と顔を合わせたくないだけだろう? だったら俺の授業をさぼるのが一番てっとり早い」
「でも、私はちゃんと授業に出ました」
「お前が顔を合わせ辛いだろうことは容易に予測できる。俺の計画では、今日の一時間目を遅刻する予定だった。自習用のプリントも昨晩たっぷりと作っておいてやったからな」
 今度は私が目を見開く番。
 あのプリントだらけの授業の裏に、そんな先生の優しさがあるとは思わなかった。告白したせいだ、という可能性を示した友達の予想が当たったことになる。
 目の下にたまり始める熱を抑えるため、私は先生から目をそらしてうつむいた。
「でも、先生は教室に……」
「俺はバカなことに、プリントを全部作り終えてから気づいたわけだ。お前が授業をさぼるわけがない、と。根拠がないように思えるが、俺はなぜか確信した。プリントを前に少し放心した、な」
 目尻を軽く拭い、思い出したように口の端を上げて笑う先生を見る。
「プリントにかけた時間が全部無駄になった……ですか?」
「それもある。俺は……お前より長く生きてはいるが、正直、人をふった経験は昨日が初めてだ。どうやら、睡魔に襲われないと俺の頭は活発に働いてはくれないらしい。俺が犠牲にした睡眠など、お前に比べればまだましなんじゃないか、とその時生意気にも思ってみたんだが……」
 前を向いて話していた先生は、そう言いよどんで私のほうを見る。私のくだす答えを待っている。
 母の前でも耐えられたはずの涙が、先生の言葉に含まれる意味を理解したとたん、じんわりと目尻からしみだしてきた。重力にそって、頬をくすぐるように撫で落ちる。
 それまで机にもたれていた先生だったけど、まっすぐに立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「若葉マークなりにもっと言葉を選べたはずだ、と思う。傷つけてすまない」
 やめてください。そう言いたいはずなのに、もれてくるのは嗚咽のみ。
 私もふられるのは初めてだった。傷、という感覚がわからないせいか、気づかないうちに我慢しすぎていたのだ。
 涙が溢れることでようやく気づいた己の未熟。その止め方さえも知らない子供。
「顔……あ、あげてください。どうしよう、先生。と、止まらないんです……これ」
 手で何度拭っても、次から次へと溢れる涙は止められず、スカートへと落ちていく。
 混乱と困惑に包まれていて、全く悲しくなんかないというのに、どの感覚が生み出す涙なのか、止まるところを知らない。
 顔をあげた先生は、ポケットからたたまれたハンカチを取り出し、無言で私へ差し出す。
 白衣でいつも手を拭いているので先生はハンカチなど持っていない、と勝手に思い込んでいた私は、たたまれた綺麗なハンカチの存在に少し驚きつつ、それを受け取る。
「ご、ごめんなさい。先生、泣いてごめんなさい。な、なんだか知らないけど溢れてくるんです」
 目にあてたハンカチを次々と濡らすこれは、先生を困らせてしまっているのだろう。
 そう思いながら見上げれば、優しげな表情を浮かべる先生に出会う。
 見上げる私と目が合ったとたん、先生は腕を組んで窓を見る。
「ハンカチは返さなくていい。止まるまで存分に活用してくれ」
 先生の言葉が頭の中に入っていく。鼻が、ハンカチから微かに漂う先生の香りを捕えたその瞬間、私の頭は混乱からいきなりの覚醒を迎えた。
「だめです。先生のハンカチなんて持ってたら、返したくなくなる上に、涙を流す一番の原因になりかねません」
 ゆっくりと私へと顔を向けて、先生は小さく吹きだした。
「だから、返さなくていいと言ってるだろう? そんな状態なのに、よくぞまあそこまで言えるもんだ」
 先生の笑顔を見たとたんに涙が止まった。混乱から脱したせいもあるかもしれないけど。
 目と頬に残る涙を拭いて、私はハンカチを持つ手を膝の上へと移動させる。
「絶対、洗って返します。持っていたいけど、持っていたらだめなんです」
 厳しい口調で言ってしまった私の言葉に、先生は髪へと手をやる。
「だったら、まあ、返してもらうか。……また、明日も来ることになるんだな」
「明日は大丈夫ですよ。さっきはちょっと……あれでしたけど、先生がらしくないくらい優しいことするから悪いんですよね。教師だったら生徒に厳しく」
 先生が普段通りに戻ったことが嬉しかった。告白のせいで話せなくなるのは悲しかった。自分のせいで先生が謝ったり、困ったりするのはもっと嫌だった。
「厳しく……は面倒だな。いつも通り、でいいか?」
「はい、いつも通り」
 いつものように、けだるげな顔を見せる先生。
 笑顔以上に安心するその表情を見られたから、私は笑顔で強くうなずいた。
 いつも通り。
 頭の中でもう一度呟いて、また来ます、と準備室を出た。
 普通でいること、の難しさを実感しつつ、私は濡れたハンカチをポケットへ入れ、教室へ戻るべく一歩を踏み出す。
 今日の涙は二度と出さない、と思いながら――。


 ◇続◇
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