学校からの帰り道、いつもは車で帰宅するけど、今日はボディーガード――彼氏と歩いて帰りたかったので、車には先に帰宅してもらった。
雑貨屋などのかわいい店が並んでいて、結構な人ごみだけど、先ほどからスムーズに歩けるのは、隣に立つ彼のせいだと思われる。
黒いスーツに、整えられた黒髪、そこに加えてこめかみの古傷。そんな彼が、制服の女子高生と歩いているのだ。目立たないわけがない。
私としては、周りが怖がっていても特にかまわない。彼と一緒に歩けるだけで嬉しいのだから。
でも、彼は居心地が悪いようだ。先ほどから、周りの視線と私の顔をちらちらと気にしている。
隣を歩いていた彼が、私の歩行の邪魔にならないよう、前へと移動した。私を守らなければいけない何かが前からやって来る、ということだ。
彼の背中から少しずれて、前方を見ると、男性が一人歩いてくる。特にガラが悪い、というようにも見えない。
「前方注意?」
「私事ですが、これ絡みの男です」
前を向いたまま彼が指したのは、こめかみの傷。前から歩いてくるのは、普通なようでいて、因縁のある男性らしい。
彼が前に立てば、まず誰も寄ってこない。でも、その男は彼が見えているはずなのに、巧妙に避けて私の肩を叩いた。
「お姉さん、ケーキのうまい店行かない?」
私の前に立つ彼を無視したことを除けば、ただの普通のナンパだ。
「行きません」
きっぱり断って、私を守ってくれるであろう彼の後ろへと回った。
男は前に立つ彼の肩を叩き、
「あんまり邪魔すると、今度は俺が刺すぜ、ここ」
こめかみを指した。この男も彼のことを覚えている。
「覚えているのか、お前も」
「そのせいであいつは少年院行きだからな。忘れるはずもねぇ。……久しぶりの再会だ。ちと、殴らせてくれねぇか?」
「……いいだろう」
そう言いながら、彼は腕時計を外し、後ろに立つ私へと差し出す。これは、私と彼の間で決めた合図――逃げろ、ということだ。
「いいとこがあるんだ。ご足労願おうか」
男が顎でうながすのを見て、彼も頷いた。
私を置いて、二人は歩いていく。
近くの雑貨屋へ駆け込んだ。暇そうにレジ前へ座っている女性へ、
「警察……呼んでもしかたない。何か……あ、ハサミ借ります。後日、必ず返しに来ますから」
と言って、レジ横に置かれたハサミを半ば強引に取った。リボンを切るためにでもあるのだろうか。普通のハサミではなく、先の鋭い裁ちばさみだった。
ハサミを袖に隠して、黒いスーツの後姿を探す。相手の男性よりも、目立つ格好の彼を探すほうがいい。
一歩、裏通りに入ると、狭い路地の両側に家が並んでいて、とても、危険な雰囲気の男性たちが歩いているとは思えない。なにより、静かすぎて、どこへ行ったのか検討もつかない。
探すのは、思ったよりも難航しそうだ。
家に入るわけもないから、とにかく適当に歩いて探すしかない。そう思っていたら、どこかから、ガン、と何かが壁にあたって転がる音が狭い路地に響く。
音の方向を頼りに走ると、それなりに大きな工場に行き着いた。奥で物音がするだけで、工場が稼動している雰囲気はない。
袖のハサミを取り出し、両手で握り締め、勝手に工場へと入る。
本当はこんなこと初めてだし、ハサミを持ったものの、人を刺すことだってできるかわからない。でも、彼を守りたかった。いつも、守ってもらっているから。
「……仕方ないって言われても、納得できねぇだろうよ?」
ふいに、男の声が反響する。でも、一階には誰もいない。二階へ上る階段を探す。
「捕まったほうがよかったんだ、あの場合は」
今度は彼の声。
大きな機械を乗り越えた先に、ようやく階段はあった。
「お前が血なんて流すから、びっくりしたババアが通報して、あいつのヤク所持がバレたんじゃねぇか」
「あいつの目を見れば明らかだっ……」
彼の声が途中で止まり、鈍い音がした。
私は階段を駆け上がり、倒れる彼の前に立った。唯一の武器であるハサミを男に向け、ポケットから取り出した腕時計を、後ろにいる彼へと投げる。逃げろ、という意味を込めたつもりで。
「うちのボディーガードなの。もう、返してもらうから」
立ってはいるものの、男もかなりボロボロになっている。
武道もこなして腕のたつ彼に、普通の喧嘩が強いであろう男がかなうはずもない。なにより、父が弱い男をボディーガードに雇うわけがなかった。
「ボディーガード雇うたあ、お嬢なんだな。さて、度胸はあるものの、そんなお嬢に刺せるか?」
「彼をこれ以上殴るなら、ためらいなく。初めてだから、加減できないかも」
言葉に出したせいか、刺す恐怖が少しだけ薄れた。今、男が動けば、間違いなく私も動けるだろう。
男につられるように、同じく不敵に笑う。 そんな私の手首が、後ろから伸びた手に強く叩かれ、一瞬にして力が抜ける。
落下するハサミは、床に落ちる前に、私の手首を叩いた彼の手によって受け止められた。
しばらく呆気にとられていた男は、やがて、
「おいおい、お前、このお嬢のボディーガードやってるんじゃなかったか? 手加減なしの手刀叩き込みやがって」
と、楽しそうに笑った。喧嘩しそうな目つきはどこかへ去っている。
私も反論すべく、後ろを向いた。もう、男に背を向けても大丈夫だろう。
「そうよ。雇い主なのに?」
立ち上がっている彼にあざはあるものの、血の出ている箇所はない。巧妙に避けていたようだ。
彼がハサミを見て、小さく息をつく。
「正確に言うと、私を雇っているのはあなたではありません」
「そりゃ、そうだ」
男の笑い声がさらに大きくなる。
私も、この男の立場だったら、冷静な彼の返答に笑っていたかもしれない。でも、手首を叩かれた挙句、こんな風に言われて黙ってはいられない。
「守るべき女性を叩いたのよ?」
「だから、逃げろ、と言いました」
言いながら、彼が腕時計をつける。逃げろ、と、あの時、私に渡した腕時計を。
「置いて逃げられるわけないじゃない」
「置いて逃げてもらわなければ困ります」
ハサミを見つめて、再び彼がため息をつく。間違いなく、呆れられている。
そして、前の男は笑っている。
「ボディーガードを助けに来て、お嬢が怪我してりゃ、こいつ解雇だな」
「ちょっと、もう、黙ってて」
男の突っ込みは絶妙だと、少し私も思ったけど、いちいち合いの手を入れられては、話が進まない。
「いいぜ。黙るから、俺と付き合え」
「いきなり?」
「なに?」
男は今までの突っ込みと同様の口調で、さらりと告白してきた。
そんな男を私は凝視する。男の顔は笑ったままだ。
「お嬢は可愛いし、俺はそいつが全く怖くない。適役だろ?」
後ろにいる彼を見たけど、小さく首を振るだけだった。自分には返事できません、といったところか。
「彼氏には不自由してないの」
ちょっと、もてる女性をきどって、肩にかかる髪を払ってみた。
「はっ、そいつ怖くて男なんて寄ってこないはずだぜ?」
「寄ってこなくてちょうどいいの。わからない?」
ゆっくりと、男の笑顔が凍りついた。私を見て、少し目線を上げて、後ろの彼の顔を見る。
「お前……お嬢、と?」
「そうよ」
完全勝利を収めた私は、笑顔で後ろの彼氏を振り返った。
でも、彼は照れるわけでも、微笑むわけでもなく、淡々と、
「帰りましょう」
と、私の背を押した。
拍子抜けした私は、押されるままに歩き出す。
背後から、
「ここ、俺の家だから、気が向いたら来い」
と言う男の声が聴こえてきた。
雑貨屋さんにハサミを返し、帰宅ルートを歩く私たち。
「私って可愛いのね。ほら、言われたことなかったし……」
わざとらしく彼の顔を見上げる。
彼はじっと前を見つめたまま歩いている。雇い主の娘を無視するとはいい度胸のボディーガードだ。
「手首、痛い」
彼の眼をこちらに向けさせるべく、大げさな声を出して手首をさする。少しあざになっているのも、痛いのも本当だった。
彼が私の手を取り、手首の様子を確かめる。
「申し訳ありませんでした。手加減しなかったのは本当です。学業に差し支えないように左手を選んだのですが、やはり痛みますか?」
軽く触れているだけの彼の手に、私は手を滑り込ませた。手を繋ぐために。
「痛くない気がする」
彼の手が少しだけ力を込める。
「屋敷に着く手前まででよろしければ」
「十分」
繋いでいる手の感触に集中していたら、それ以上の会話が出てこなくなった。無言でしばらく歩く。
一つの建物を見つけ、まず、彼が足を止めた。
「お嬢様……」
すぅ、と手が離される。ずっと温かかった掌へ風が流れ込んできた。
名残惜しくて、冷たさが寂しくて、さらに離れようとする彼の指をつかんだ。
腕時計が、かちゃり、と鳴った。
「私、逃げないから、もう腕時計は渡さなくていい。絶対、渡さないで」
「ですが、私はボディーガードです」
逃げることもできるけど、彼の指が、私の手を離れることはなかった。
「私も守りたいから」
彼の指を離し、手首の痣を指し示す。
「手始めに手刀ってものを教えてくれない? 護身術、真面目に覚えるから」
電灯の下で、彼が微笑む。
「真面目に、ですか」
「ああいうことがあったら、今度は一緒に戦ってもいい? でも、足手まといになったら……」
腕時計を渡して、と続ける前に、彼が強く頷いた。
「わかっています」
「逃げる脚力も必要、と。私なりに運動メニュー組まないと、ね」
これから大変、と彼に笑いかけた時だった。
目の前を大きな影が覆い、唇に温かいものが重なる。少し強めに押し付けられたそれに驚きながらも、半ば無意識に目を閉じていた。
やがて、ゆっくりと光が瞼の裏に入り込み、後頭部にあてられていた彼の手も離れる。
目を開けると、彼が無表情で私を見下ろしていた。私の第一声を待っているのかもしれない、となぜか思う。
唇も体も熱い。頭が少しぼーっとする。
「初めて、って知ってた?」
「いえ」
「いきなり?」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい。どうして?」
「答えなければ……いけませんか?」
彼にしては珍しく、歯切れの悪い返答だ。キスした理由が、したくなったからした、でも別にいいと思っていた。そのほうが、嬉しい。
「答えて」
「かわいい、と思ったら止まりませんでした」
いつものように淡々とした口調ながら、衝撃の答えに、思わず私は顔を覆った。
そのまま、
「本当に? 嘘、でしょ?」
と、問いかける。
彼の手が、両手をつかみ、私の顔を明かりのもとへ晒す。そして、しっかりと私と目を合わせて、
「嘘をつく理由がありません」
と、きっぱりと言い放った。
彼の手を振りほどく。
「さっきは無視したくせに」
「照れ隠しだ、と受け取っておいてください」
彼の指がネクタイに指をかける。緩めるわけでもないらしく、何もしないまま手を下ろす。
彼に向かって、ぴしりと人差し指をつきつけ、
「私もいきなりを狙うから」
と宣告してやった。敬語は変わらないものの、どうにも、彼に先を越された気がするのだ。
「受けて立ちましょう」
私の彼氏であり、ボディーガードであり、腕のたつ猛者でもある目の前の男は、そう言って、嬉しそうに微笑んだ。
◇終◇
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