2話:逃亡の果て
──元恋人である彼に向けて銃を撃つ。鏡に映った私の顔に慈悲のかけらはない。にやりと笑った私は、その部屋を後にした。そんな私の後を追う男の顔は見えない。それは、兄か、弟か……。私? 私が追いかけてきてほしいと願うのは……。


 目覚めた私の隣りで、怪しく黒光りする拳銃が、夢の生々しさを嘲笑っている。
「ふっ……」
 私の胸の上に置かれた手をはらいのけ、私は古臭いベッドから下りた。
 そして、同じベッドで眠る男を一瞥する。
 名前も知らない男。宿無しの私に一晩の宿を提供してくれた。ありがたい、と言いたいところだが、その代償は高くついた。気持ち悪さで吐きそうになる私におかまいなく、男は事を楽しんでいた。私は頭を、ある男の顔でいっぱいにした。そうすると、不思議といい心地になれるのだ。
 そのまま眠ってしまったせいだろうか、見たくもない夢を見た。悪夢というには、あまりに生々しい。現実であり、虚構でもある、そんな夢だった。
 ベッドの柵にかけられた服を羽織り、男の財布から全額抜き取った。
「ばかな男…」
 自分のバッグを取り、──ベッドに乗っかったままの拳銃を、ブラジャーと肌の間に入れた。

     ◇          ◇

 熱さの残る公園で、木陰のベンチに座り、買ったばかりのアイスの袋を開けた。
『当たり!』
 袋の内側にかかれた文字。何かと思って表を見ると『当たりが出たらもう一本!』。
 小さい頃──組織に入る前は、当たりなど出たことがなかった。まさか、気まぐれで買ったアイスで当たりが出るなど、あの頃の私がいたら、さぞ羨ましがることだろう。
 アイスをかじりながら、袋を適当にわきに置いた。
 案の定、袋は風に飛ばされていった。
 行方を目で追うと、砂場にいた少女がそれを持って、私のところへ歩いてくる。
「あの、これもらっていい?」
 少女の気持ちは痛いほどわかる。
「ええ、どうぞ」
 おずおずとしていた少女を恐がらせないよう、私なりに極上の笑顔を用意した。
 あれ以来、笑顔など作っていない。作る必要もなかった。
「あ、の……ありがとうございます」
 少女は笑顔を見せて、走って公園を出て行った。
 
──彼は木陰に、身をひそめるでもなく、立っていた。

私たちは互いを見つめ合った。
人がいないとはいえ、こんな所で銃撃戦をやらかす気は毛頭ない。おそらく彼も同じだろう。いや、同じであってほしい。
……だが、彼は違った。懐に手を忍ばせたのだ。
「! ……無粋な男ね」
 まだ残っていたアイスを投げ捨て、私は首元のジッパーを胸まで下ろして、拳銃を手に取ろうとした。撃つつもりはない。ただ、願わくば、少女が巻き添えにならないよう、銃を持った私を見て逃げ出してくれますように。近づきませんように……。

 だが、私たちの間を、白いワンピースが駆け抜けた。
「あ! ……」
 まだ私の手に銃は握られていない。
「へへ。アイス……」
 軽い息切れと共に、私の前に立った少女が言った。そして、手に持ったアイスの袋を誇らしげに見せている。
「──そう、よかったわね」
 今の私に笑顔を作る余裕などない。怯えるであろうことは予想している。
私は鋭い目で少女を見た。それを見て逃げてほしかった。
「ここで、食べてもいい?」
 そんな私の眼光にも、少女の無邪気な笑顔は変わらない。
 そして、私の期待を裏切って、少女は私の隣りへ座った。
──あの男は?
 彼の姿を探した。すきだらけの私に向かって、撃ってこないわけがない。
 だが、彼はいなかった。場所を変えて狙っているかと思い、辺りを見回したが、やはりいない。どういうつもりなのだろう。彼にとって見れば、絶好の機会であるはず。組織でも教わったではなかったか?
『チャンスを逃すな』と。
『一瞬の迷いが命取りになる』と……。
 それを、私より完璧に仕込まれたはずの彼が、死守していたはずの彼が、なぜチャンスを逃す?

「わっ……」
 少女の小さな叫びが、私を思考から呼び戻した。
 見れば、白いワンピースに、うっすらとピンク色の染みができていた。
「どうしよぉ」
 私は彼を探すことをやめた。まずは少女からだ。
「ほら、これあげるから、とにかくこの公園から出なさい。お家、帰れる?」
 私はバッグから適当に取り出した布を少女に渡した。
「これ、なに?」
 少女が受け取ったばかりの布を差し出す。
 ぎくり、とした。
 グレイのシャツに色濃くついていたのは、赤茶けた染み。乾いた血の跡。
「あ……ごめんなさい。えっと、そうだ、これこれ」
 少女からシャツをひったくり、代わりにタイミングよく出てきたハンカチを渡した。
「ありがとう」
 私は手に持ったシャツを、あわててバッグにねじ入れた。
 少女の白を染めるのはアイスだけでいい。あの染みの正体は、知らなくていいのだ。知らないほうがいいのだ。
「これ、ぬらしてくる」
 少女は、公園の中央に向かって駆けていった。そこにある噴水に、ハンカチをひたそうとしているのだろう。
 だが、ハンカチを全てひたそうとした少女は、それから手をはなしてしまった。当然、ハンカチは流されていく。
「もう……」
 私が少女の手助けに向かうため、立ち上がったが足は止まった。
 少女の手からはなれたハンカチを拾ったのが、他ならぬ彼だったからだ。
「何を、考えているの?」
 少女と彼は何か話しながら、こっちへ近づいてくる。
 逃げようか、と考えて自嘲した。『彼』から逃げる気など、最初からなかったではないか。
 私は彼をじっと見た。何をするのか確かめるために。その真意を見極めるために。
「ありがとうございました」
 少女は彼にハンカチを渡し、舌足らずな声で言った後、ぺこりと頭を下げた。次いで私に向かっても、同様に頭を下げる。
「お話の邪魔になるから、帰ります」
「え? ……」
 少女の顔に起こった変化を見逃さないわけがない。だが、逃げるように少女は走っていった。


「あの子に何を言ったの?」
 少女の姿が公園から消えた後、隣りに立っている長身の彼の胸ぐらをつかんだ。
「『お話の邪魔になるから帰りなさい』とだけ。お前の気持ちをくんで、親切に言ってやったつもりだがな」
「だけ!? そりゃ、あなたにとってはね。だけど」
 あの子は怯えていたわよ、と続けようとしたが、胸ぐらをつかんでいる私の手首を、彼の手がきつくしめつけてきた。
「っつ……」
痛みのあまりに離さざるを得ない。だが、痛がる私など気も止めずに彼は言う。
「……あの子は帰った。それでいい」彼は見下ろすように私を一瞥する。「だが……」彼の手が懐に回る。
「名も知らぬ少女のことなど、気にしている暇はないはずだ。それで現実から逃げ出したつもりか?」
 私の怒りに、彼の嘲笑が返される。
私を公園の安らぎから、引きずり出そうとしている。そして、ようやく現実へと立ち返った私に、死の宣告を下すのだ。手に持った銃と共に――。
「──traitor。それが今のお前だ」
 私は自分のバッグに目を落とした。
 無情にもその姿をさらしているのは、乾いた血に染まったシャツ。なぜか、ずっと持っていた。あの人の返り血を見ることで、忘れられなくしようとしていた。そうして自らの手によって烙印を押すことで、楽になろうとしていたのかもしれない。
「そして、あなたは……」私は言葉を切った。
 彼の反応を見るために、向き直った私の前につきつけられたのは、
「──chaserだ」
 無情な彼の言葉と、──硬くて細い銃口。
 私は、思ったより落ち着いている。わかっていたことだった。逃げる気のない者に訪れるのは、生ではなく死──。
『当たり!』
軽妙な文字が頭に浮かぶ。
ああ、こういうことだったのか。望んだ死に間違いはなかった、と。追いかけてほしいと願った人は、たしかに自分を追いかけてきてくれたのだ、と。
「公園のそばの廃工場」
 彼は私から離れた。
 公園に人が入ってきたのだ。
「ええ」
 彼は銃をしまい、私の姿を確認もせず歩いていく。
 私はバッグをゴミ箱に捨て、いつものざわめきを取り戻したのであろう公園を後にした。


──逃亡の果てに待つものは何であろうか

──烙印の中での生か

──安楽を求めた死か

──どちらでもいい

──ただ、それらが

──彼の手によってもたらされることを

──私は望んでいる


 ◇終◇
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