4話:二人の笑顔
 好みの曲が響く部屋を、私は掃除機片手に鼻歌混じりで歩く。

 ここは一人暮らしの兄の部屋。社会人である、ということだけは両親も私も知っている。ただ、何の職業に就いているかは知らない。
 兄の友人が言うには、何かやばい仕事であることは確かなのだそうだ。その言葉を聞いたのは私だけ。両親にはきちんとやっているらしい、とだけ伝えておいた。
 私としては、兄が何の職業に就いていようがかまわない。優しい兄で、大好きな兄であることに変わりはないから。
 合鍵ももらったし、毎日こうして勝手に部屋に入る。そして掃除と晩御飯だけ作って帰る。時々、裸の女の人がいるけど、それももう慣れた。よく来る女の人は、ケーキをくれたりするし、私は兄の彼女でもないので特に文句はない。

 曲のリズムに合わせて掃除機を動かしていると、古い玄関のドアが大きな音をたてて開いた。
 開いたドアから外を見ると、ここへ来た時に部屋を照らしていた夕日はとっくに沈んでいた。
「あ、お帰り」
 会話の妨げになる掃除機をとめて、私は玄関に立つパーカー姿の兄に声をかけた。
「おう。お前、いつもだったら今頃いねぇくせに、どうして今日に限って……」
「しょうがないじゃない。高校の文化祭の集まりあったんだから。来ないほうがよかった?」
「い、いや、そういうわけじゃねぇけど……」
 兄が決まり悪そうに後ろを見る。
 私は、掃除機を置いて、玄関へと近づいた。
「こんばんわ」
 兄の後ろから、長い髪をさらりと揺らして、一人の女性が挨拶してきた。
「あ、こんばんわ」
 ちょっとびっくりした。いつも兄が連れてくるタイプとは全然違ったから。
 その女性は、私でも憧れそうなほど綺麗で、どこか強く、凛としている。場慣れているのか、私にも優雅な笑みを見せてくれる。
「なんだ。女の人いるならいるって言ってよね。誤解されて痛い目見るの私なんだから」
 私は奥の押入れに掃除機を片付けながら、玄関でまだ立っている兄に文句を言う。
 兄は今までもこうして予告なしに女の人を連れてきた。あまりに不十分な説明のために、いつも『泥棒猫』と罵られて私が追い出されるのだ。
 机やベッドの周りを適度に片付けて、私はバッグを手に玄関へ行く。
「ありがと、な」
 玄関で靴を履く私と入れ違いに、兄と女の人が部屋へと入る。
 靴を履き終わった私は、改めて二人と向かい合う。
「お疲れさま」
 そう言ったのは女の人。
 私はかなり驚いた。今までそんなこと言われたことないし、ましてや兄が連れてきた女の人から言われると思っていなかった。
 私を罵るほど兄を好きでないのか、あまりに子供だから相手にしていないのか。とにかく、私の意表をつきまくるこの女の人に奇妙な好感をおぼえた。
「晩御飯、二人分いけるかわからないけど、多めに作ったから」
 兄にそう言って、私は女の人を見る。見るけど、どうにも照れて目がうまく合わせられない。
「え、っと。それじゃ、ごゆっくり」
 ドアを閉めて、逃げるようにアパートの階段を下りる。
 頭の中には、さっきの女の人の笑顔がずっと残っている。カンカンと鳴る階段が、余計に私の心を焦らせた。
 長くはない階段を下りた私の足下に、煙草の吸殻がポンと投げられる。
 何かと思って顔をあげたら、私をじっと見る男の人がいる。
 黒の短髪に、黒のTシャツ。そして黒のズボン。全身黒なのに、それらは男の人が出す雰囲気にとても似合っている。
(偶然、煙草が飛んできたってことで……)
 心の中で言い訳しつつ私はその男性を一瞥して、前を通り過ぎようとした。
「──話がある」
 手首を強く掴まれる。
 ドラマとかだったら大きな悲鳴出すところだろうけど、残念ながら、本当に怖い時に限って悲鳴は案外出ないものだ。
 返事を急かすわけでもなく、男性は手首をつかんだままじっと私を見ている。
「誰、ですか?」
 男性は、くいっと顎で上の部屋を示す。
「あそこの男と知り合いか?」
 質問に答えてくれない。逆に質問を投げかけてきた。
(これって明らかにやばい系の人じゃない。もしかしてお兄ちゃん……)
 私は空いている手で、男性の腕をつかんだ。今度は私が逃がすまい、とする。
「お兄ちゃんに何かする気ですか?」
 街灯にほんのりと見えていた男性の鋭い目が、ふいに見開かれる。男性の手が、私の手首を離れた。
 やがて、優しい手つきで私の手を、ゆっくりと彼の腕からはがしていく。
「あんたの兄が何をしたかは知らんが、俺は女のことを聞きたいだけだ」
 その時、私たちの横を通り過ぎたおばさんが、不審な目を向けて1階の部屋へと入っていった。
「すみません。あっちの公園で話してもいいですか?」
 私の視線の先を、男性が辿る。そして、彼はうなずいた。
「ああ、すまない」
 男性が先に歩き出した。私もあとについて歩き出す。
 兄とは何かが違う大きな背中を見ながら、ふと思う。
(逃げ出すとは思わないのかな。どうせすぐに追いつかれるだろうけど、せめて手くらい掴んだらいいのに)


 やがて公園に着いた私たちは、一角にあるベンチに座った。
 ここに来るまで男性は一度も私を見なかった。ただ、一本の煙草をずっと吸っていただけ。
 座ってから、ようやく男性は私を見た。
「……逃げないのか?」
「……逃げてほしいんですか?」
 男性は長く紫煙を吐き出した後、短くなった煙草を捨てる。
「俺は、逃げる女しか知らない」
 私は男性の言葉の意味を考えた。でも、わかるはずもなく、一つの答えを返す。
「今のところ逃げる必要ないですし」
 実を言うと、この男性の沈黙に少し興味を持った。見かけは怖いのに、答えをゆっくりと待ってくれるような、そんな落ち着いた静けさ。まだ多くを話していないけど、男性の沈黙はとても雄弁に感じていた。
 私の言葉を聞き、男性は小さく目を見開いたあと、足を組んで口を開いた。
「女があの部屋に来ただろう? 何か話したか?」
 私は大きく首をふる。
「挨拶以外は特に何も。あ、でも……」私の脳裏にあの女性の顔が浮かぶ。「いつもお兄ちゃんが連れてくる女の人って、私を見ると何かと文句言ったり追い出したりするんですけど、あの女の人は何も言わなかった」
 『お疲れ様』と微笑んでいた女性の顔が、また脳裏に浮かぶ。
 私は、隣でじっと前を向いたままの男性の横顔を見る。
(この人は……あの人に、何をするんだろ。綺麗だったけど悪い人でもなかったと思う)
 大きく息をついた男性は、ぐっと伸びてベンチに背をもたれさせる。
「あの女、また一夜の宿を見つけたか」
 低い呟きだったけど、すごく寂しそうに聞こえて、私は思わず聞いた。
「あの女の人と恋人なんですか?」
 我ながら短絡思考だと思ったけど、私の経験値ではそれくらいしか、この男性とあの女性を結びつける言葉が思い浮かばなかった。
 少しだけ、男性が笑った。口の端に少しだけ浮かんだ笑み。
「──それを望んだ時もあった」
 私の短絡思考はまだ終わりを知らない。
(お兄ちゃんったら、恋人のいる女の人を……!)
「お、お兄ちゃんに言ってきます。女の人、連れてきますからっ。ここで待っ……」
 慌てて立ち上がった私の腕を、男性が掴む。
「今はやめたほうがいい」
 私は男性の手をふりほどくべきか迷う。
「え、でも、女の人がっ」
 男性が私の腕を引っ張り、私はベンチへそのまま座り込む形となった。
 解放された腕と、体重がかかって痛いお尻を気にしながら、男性の答えを待った。
 焦る私をよそに、男性はポケットから取り出した煙草をくわえ、火をつける。
(?)
 男性のTシャツが少しまくれた時に、腰の何かが公園の灯りに反射した。だけど、それは私の視界の端での小さい出来事として、流すことにした。
「意気込むのは勝手だが、一つ部屋にいる男と女がすることはそう多くない。あんたが見たいのなら……話は別だな」
 男性は、煙草片手に覗き込むように私の顔を見る。
 私はようやく言われた意味がわかり、恥ずかしくなってうつむいた。
「み、見たくないです。でも、恋人になりたいってことは、好きとか、愛しているとか……」
「俺は、愛している、のほうだろう」
(……!)
 うつむいた視界の端で、今度ははっきりとそれが姿を現していた。
 男性が、ズボンのウエストで挟んでいるもの。それは……。
「あ、愛しているって……。なのに、ころ、す、んですか?」
 黒光りする拳銃に我が目を疑った。試すつもりで聞いてみただけ。
 なのに、恐怖に声はしっかり震えだす。さらに、男性の見開かれた目と、指から落ちた煙草が肯定を物語っていた。
「あの女が兄を殺した事実は変わらない。俺の手であの女に死を……。俺の死もあの女の手で……」
 男性は、独り言のほうに呟いている。手はだらりと下がり、目は私を通り越して何かを見ている。
 無意識のうちに、私はスカートを握り締めていた。じんわりと汗がしみだす。力を入れていても、なお、手は小刻みに震えている。
「だったら、早くお兄ちゃんの部屋に行けば……」
 わからない。あの女性が部屋に行ったことを知りながら、なぜこんなところで話しているのか。そして、拳銃を見られた男性が、私に何をするのか……。
「俺も……」男性が立ち上がる。「見たくないのだろう。あの女が他の男と寝るところを。……もう、うんざりだ」
 男性が腰の拳銃を、私へと突きつけてきた。
 私は恐怖で硬直していた。動けば撃たれる。感じたことのない緊張が体を包む。
「逃げないのか?」
 男性の手は震えずしっかりと拳銃を握っている。だけど、私が顔を上げると、その目は迷うように見開かれていた。
(お兄ちゃん……の目だ)
 私が強い目で男性を見ると、彼は思い切り目をそらした。
「撃つ気ないくせに」
「……?」
「お兄ちゃんもよくそうする。時々、刃物持ち出したりして私を牽制する。でも……刺したりしない。それと同じ」
 ガチャリ、と銃が音をたてる。
 何が起こったのかはわからないけど、おそらく次は弾が出る。
「俺は兄ではない。似ていたとしても──あいつとは違う」
 男性の迷いが見えるほど、私の恐怖は薄れていく。
 私は、スカートから手を離し、震えていないことを確かめる。そして、立ち上がった。
「お兄ちゃんになら殺されてもいいけど、あなたに殺されるのは嫌、です」
 じっと男性の拳銃と、目を見る。撃たれてもいい、と少しだけ思ったことは言わなかった。
 ようやく、男性の腕が下がる。次に腕を上げた時、手に持っていたのは拳銃ではなく、煙草だった。
「俺に向かって、撃たないとは、な」
 独り言に返事してもいいものか、と思いはしたけど、やっぱり言わずにはいられない。
「あまり喋らない分、目が思いっきり迷ってました」
 少しだけ私を見下ろして、男性はベンチに腰を下ろす。
「──そうか」
 男性の吐き出す紫煙が、立っている私の前を昇っていく。なんだか、大人な感じがして、おもいきり吸い込んでみた。
「……ゲッ、ゲホッ」
 私を見上げた男性の雄弁な目は、明らかに一つの言葉を語っている。
(あ、馬鹿って目)
 取り繕うべく私は、押し出てくる咳を飲み込み、必死でまくしたてる。
「あの、私誰にも言いませんから。あの女の人にも、お兄ちゃんにも。だから、お兄ちゃんを巻き込むのだけはやめてください」
「巻き込むつもりはない。あんたも、その兄も、俺たちには」見上げていた男性の目が、下を向く。「……関係ない者だ」
 私は何も言えなくなった。
 さっきの拳銃よりも冷たい何かに突き放されるように、私は走り出した。
 制服にしみついた煙草の匂いが、私の鼻をくすぐり、目から涙を流させた。


 翌朝、早くに兄から電話がかかってきた。
 誰もいないリビングで、制服に消臭スプレーをかけていた私が、一番に受話器をとる。
『もしもし。……あ、お前か? 昨日来た女と何か喋らなかったか?』
 兄が朝早くに起きていることも珍しい。でも、口調からして明らかになにかあったようだ。
「何も話してないけど? こんばんわ、とか……。何かあったの?」
『財布の金、全部とられた! あぁ、クソッ。あの女なのはわかってるんだよ! 金ねぇし、今日そっちに食いに行くからな』
 私は、片手に持ったままの消臭スプレーを、意味無く部屋にふりかけてみた。
「あのさ、あの女の人殺されるんだって。だから、お金くらいあげようよ」
 しばらくの沈黙の後、素っ頓狂な兄の声。
『はぁぁ!? 殺されるってなんで知ってんだ!?』
 私の脳裏に煙草を吸う男性が浮かぶ。
 また、スプレーをふりまいた。
「愛するからこそ自分の手で殺すんだって。女の人に殺してほしいんだって。わけわかんないよね。たぶん、お兄ちゃんにも私にもわからないところなんだよ」
『……お前、何知ってるんだ? やばいことなら言えよ』
 真剣な兄の声に、私は少し笑った。
「違うって。大丈夫、私たちは巻き込まないって言ってたし。関係ないんだってさ。でも、関係なくないよね。お兄ちゃんはお金取られたし、私は……」
 昨晩の公園での出来事が、次々と私の頭に蘇る。男性に言われたこと。つきつけられた拳銃の黒光り。
『学校行く前にな、俺んとこ来い。全部聞いてやるから、なっ』
 兄の言葉を最後に電話は切れた。
 お疲れ様、と微笑んだ女性の顔。
 女性とのことを思い出したのか、口の端に少しだけ笑みを浮かばせた男性。
 どこか似ていた、と思いながら、私はゆっくりと受話器を置いた──。


 ◇終◇
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