6話:傷
 相手に銃弾を埋め込み、そのまま静かに去っていくだけの簡単な任務。
 誰にも見つからないはずだった。
 逃げるために走る必要もないはずだった。
 これ以上逃げていても追っ手を増やすだけだと、私は振り向いて即座に銃を構えた。
 私の行動にひるんだ相手が、同じく銃を向ける。
 束の間の沈黙。
 相手は三人だが、早撃ちには自信があった。相手の一発の間に三人を撃つ自信も十分にある。
 どちらが引き金を先にひいたのか。
 銃声の後に倒れたのは私。目の前で追っ手の三人も倒れている。
 そして後ろには……。
「つまらぬミス、か」
 私は突き飛ばされたのだと気付く。
 後ろに立つ彼の銃口から一筋の煙が立ち昇っている。
 立ち上がって彼に冷笑を見せてやる。
「……余計なことを。ミスを犯したのは私だけど、責任くらいはちゃんと取れるわ」
 自分のミスを人に助けられるほど、屈辱的なことはない。しかも、彼に、だ。
 彼の横を通り過ぎる際に、何かが足元に落ちた。
「怪我、したの?」
 一滴だった赤の上に、また新たな血が滴り落ちる。
「生き延びられたことに感謝するんだな」
 銃を懐へしまった彼は、足跡代わりに血を落としながら歩いていく。
 背を見送れば、彼の肩口と腕に赤いものが広がっている。慌てて引き止めた。
「ちょっと待って。怪我してるじゃない。手当てしな……」
「俺の傷を気にする暇があったら、銃の腕でも上げておくことだ。それと、このくらいの傷で動揺しない度胸も身につけておけ」
 私の手を強引に払って、口の端をつりあげて笑い、彼はまた歩いていく。
 ミスを犯し、彼に傷を負わせたのは確かに私の未熟さが原因だ。それがわかっているからこそ、私は彼を引き止めることができない。立ち去る背中を見送るしかできない。
 かがんで、その場に残された血を指でなぞる。
 ふいに自分の体に血が浮かんでいないことに疑問を持った。
「今回の任務に彼は必要ないはず……。助けに来て……」
 そこで馬鹿な考えを浮かべた自分自身を嘲笑う。
「ふっ、あの人と付き合う時に妄想は止めることにしたんだった、わね」
 彼に対する少女のような期待は今の私には邪魔なだけだ。彼の傷を思い出してうずく心もやっかいなだけ。
 私は指につけた血をそっと口に含んだ。広がる鉄の味。
 倒れている三人の男に背を向けて、私もその場を後にした。


 任務の後は組織長へ成果を報告する。
 組織長でもあるあの人がうなずいて、私は一礼して長の部屋を出ようとした。
「何かミスを犯しはしませんでしたか?」
 静かな組織長の声に足を止める。
 任務は遂行している。だから、それ以上の余計なことは報告しなかった。
 振り向いた私に対して、あの人は重厚な椅子に座ったまま微笑を浮かべて見ている。
 今は組織長と一人の雇われ者。恋人たちの語らう時間ではない。
「そう聞かれるのはなぜでしょうか?」
 長が自分の肩と腕を指す。
「弟が、傷を負って帰ってきた。それだけです」
「何も聞いていないのですか?」
「言うような彼ではないでしょう。君もよく知っているはず」
 私の心情を見透かすようなセリフに、わずかな動揺が湧き上がる。私たちは恋人同士、と言い聞かせ抑え込んだ。
「私がミスを犯したとのご判断は……」
「先ほどから言っています。弟が、傷を負って帰ってきた。それだけです」
「ですが、それだけでは……」
 なぜ、こんなにもあの人の判断を気にするのか。
 先ほど飲み込んだはずの血の味が、口に蘇ってきた。
 私の心情を察したのか、あの人の目が変わった。
「言い方を変えてみます。彼が傷を負うことは滅多にない。いえ、皆無に等しい。その彼が二ヶ所も傷を負っていた。理由は話さない。誰かをかばっている、と私は思いました。そして彼がかばうと言えば……」
 あの人が答えを言おうと開く口が、私の愚かな妄想をも射抜いてしまいそうで、おかしな恐怖が体を包む。
「いえ、余計な詮索をしました。失礼します」
 逃げるように組織長の部屋を出た。
 あの人がどんな目で私を見送ったかを確かめもせずに──。


 組織長の部屋を出た私は、医務室へ寄ってから、彼の部屋へと向かう。
 鍵のかけられていないドアを開けると、ちょうど彼が傷の具合を見ていたところだった。上半身は裸になっている。乾いてこびりついているはずの血は、すでに拭われていた。
「ちょうどいいわ。手当てしましょう」
「……いらん」
 嫌な奴が来たと言わんばかりの表情を見せ、彼はうっとうしそうに手近なシャツを羽織る。
 私の横から部屋を出ようとする彼の腕を思い切りつかんだ。
「っつ……」
 痛みに顔をしかめる彼の腕を掴んだまま、無理やりに部屋に置かれた椅子へと引っ張っていく。
「さ、手当てするのよ」
 上から睨んでくるが、私は手を離さない。
 大きくため息をついた彼が椅子へと座った。
 ボタンのとめられていない彼のシャツをつかんで、肩を露わにさせる。それほど大きくはないが、しっかりと銃弾がかすめていたようで、皮膚が裂かれていた。
 持ってきていた消毒液を傷の上に流していく。泡の量が、増幅された痛みを思わせる。だが、彼は依然、無表情。
「痛く、ないの?」
「痛い」
「さっきみたいにそれらしい顔見せれば?」
「見せる必要性がない」
「……そうね」
 無表情ながらもこうして手当てをおとなしく受けている。怪我をしたのは体だけで、口は相変わらずらしい。
 ガーゼをあてて、包帯を巻きつける。きついかどうかなど聞いてはやらない。きつかろうが、きつくなかろうが同じ無表情なのだから。
 シャツを元通りに羽織りながら、彼がぽつりと呟いた。
「怪我したのか?」
「するわけないでしょ」
 医務室からもらってきた消毒液などをまとめていると、その手を彼にとられた。
「この血は?」
 乾ききっている血が、少しだけ指についている。あの時、全て口に含んだはずの彼の血。
 とっさに答えられぬ私の顔に、羞恥の熱が広がっていく。
 怪訝な表情でしばらく見ていた彼は、やがて私の指を離した。
「俺の血、か?」
「……ええ」
 それ以上を追求される前に、必要な物を手に、私は彼に背を向ける。
 本当なら私の指につくはずもない彼の血。
 舐めたことは私だけの秘密でありたかった。
「すまなかった」
 ドアを閉める直前聞こえた声に、思わず手を止める。
「どういたしまして」
 それだけ言って後ろ手にドアを閉めた。
 歩き出さず、じっと血のついた指を眺める。
 先ほどまで普通に見ていたはずの、彼の鍛えられた上半身が鮮やかに蘇ってくる。
 つかまれた指の感触をそっと抱き込んで、彼の声が残る部屋を後にした。


 ◇終◇
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